一億総兼好時代

高校時代、古文が嫌いでした。

古文の先生が、古文の原文を配り、「各自が意味を調べながら読み進めろ」という授業スタイルをとっていたのですが、何をどう調べたらよいか分からない私には、もっとも苦痛な授業でした。

しかし、そのうち私の中で何かが砕け散り、「何もしなくてもよい授業」となってからはパラダイスな時間へと移り変わりました。人生って、考え方次第で幸せになれるものですね。不思議なものです。

それでも、古文で赤点を取ったことはありません。古文は日本語。くせの強い訛りと捉え、超感覚で試験に臨んでいたのですが、まあなんとか点は取れたようです。古文にお悩みの諸兄はぜひ、お試しを。

さて、そんな古文嫌いな私ですが、ときどき無性に徒然草の冒頭を思い出すことがあります。

「つれづれなるままに 日暮らし 硯にむかひて 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ」

教科書に載る有名な文章ですので、暗記している方も多いと思います。

私も古文に関してはほぼ記憶を喪失しているのですが、徒然草だけは記憶に残っていました。それは小林秀雄の徒然草に関する評論が国語の教科書に載っていたからなのです。

小林秀雄いわく、徒然草の冒頭は、「暇にまかせて日がな一日机に向かって、思いつくことを取りとめもなく書いていると、物事の本質が見え過ぎてきておかしくなりそうだ」的な解釈になるのだそうです。つまり、兼好法師は物事の本質を見抜く目を持っており、困るほど物が見えてしまう人物だということです。(この解釈や訳し方は、私の古い記憶に基づく超感覚なので、間違っていても批判は受け付けません。BPOに相談しても無駄です。訴訟はお金がかかるから嫌です。)

そのような目を持ちたいという私の憧れが、30年以上経っても忘れない、この強固な記憶に結び付いたのでしょう。

この物事の本質を見極める力。本当に欲しいですね。会社経営で存分に力を発揮してくれることと思います。

そんなことを思いながら最近の世の中を見てみると、本質を見極め、ネットで情報発信している方が多数いらっしゃることに気づかされます。

そういった方の情報に触れると、一つのニュースに対する理解の正確性や洞察の深さが、大手新聞やテレビなど、いわゆる大手マスコミなどのそれとは比べ物にならないものであることが分かります。

いや、もう一歩踏み込んで、大手マスコミは情報発信に関する独占的立場を悪用し、正確な情報発信をしていないことが分かってしまいます。

ニュースの内容によっては、世論を一つの方向に向かわせようと、情報をチェリーピッキングしていると言われても仕方ない発信の仕方をするケースも目につきます。

ネットの普及によって本質を見極める人が我々の目にも留まるようになるということは、
そんな偏った情報発信を正す良いきっかけになるはずです。

我々一人一人が身近な情報の中に含まれる本質を見抜き、正しく発信する力を磨くとともに、世の中に埋もれた兼好法師をどんどんと発掘していく。皆が兼好法師になれば、世の中はより良く変わります!

一億総兼好時代を目指そうではありませんか!

秩父で山に登るIT経営者より

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